それでも、強く生きる。ADHDの高校13年生

ADHDやその他いろんな症状を持つ自分が強く生きていくためと記録のためのブログ

高3時代。進路をめぐる話し合い

米粒です!


引き続き、自律神経失調症で悩んでいた10年前の出来事を書いていきます。


前記事はコチラ↓


https://grainofrice.hatenablog.com/entry/2019/10/19/020733


では行こう!


11月1日の模試を途中で帰ってしまった。

途中なので試験結果は出らんし親父には怒られるわで

散々な気持ちだった。

その日の夜、母親と2時間程徹底的に話し

俺は大学受験を辞めて専門学校の進学を決意した。


問題は担任と親父なのだが‥。


・進路変更

11月2日月曜日、担任と話し合おうと思い昼休みの時間を見計らい登校した。

んで職員室におった担任に

「先生、俺‥やっぱり4月に話していたように専門に行きたいです。目標する大学もいい大学だとは思いますが、自分の人生なんで‥」

と恐る恐る話す。

担任は俺の話をじっと目を見て聞いてくれた後に

「いいよ。」

と言ってくれた。

大学受験組の邪魔をしないことと、辞めたからと言って投げやりにならないことを条件として出されたけど

そこは問題なくパス。

家に帰り、母親に話したら「良かったやない。そのかわり専門でも頑張らないかんよ!」

と嬉しそうな声だったのが記憶に残ってる。

その日は親父が仕事でいなかったので、次の日の夜に親父とは話し合いをすることにした。


・進路をめぐる喧嘩

11月3日、この日は祝日やったから学校は休みで夜まではのんびりしてた。

親父にどう話を切り出そうか‥

横の席で何も言わずに晩御飯を食べている親父に切り出し方が分からず、食事の時は話せんかった。

やけどいつかは話さないかん。

親父の部屋の前に立ち、「何を言われるだろう」

と考えながら5分くらいうろうろした。


埒があかないので出たとこ勝負と思い、親父の部屋をノックして開ける。


部屋では親父がコーヒーを片手にパソコンを見ていた。

「おう、米粒。体調はどうや?」

とこちらにあまり顔を合わせず聞いてきた。


「うん、おとといの体調不良は良くなったけど

まだ微妙ってとこかな。


てか担任とももう話したけど、進路のことでね‥」


このころから、親父とサシで話すときの空気が大嫌いになった。

今すぐ出て行きたくなるほどの重い空気が部屋を包む。


「進路っつったって、模試もまともに受けれんやつは大学は無理よ」

と親父は吐き捨てる。


「うん、大学受験はしない」


そう言った瞬間、ほとんど俺を見ずに話していた親父が俺のほうをにらみ、目つきが鋭くなった。


「どういうことや?」


「俺はおしゃれとかめっちゃ好きやし、大学受験は辞めて美容学校に行こうと前から思ってた」


「なんやそれ!初めて聞いたぞ!何でそんな大事なことを言わんのか!」


高2のときから美容学校に行きたいとは思っていた。


しかし俺には姉が居て

姉は難関大に行ける学力があったにも関わらずやりたいことがあるといって専門学校に行き、あまり資格もとらずに卒業して高卒でもつける会社に就職した。


だから親父にとって「大学」が全てであり、専門はろくなところではないという考えだったらしい。


その話を聞いていたので切り出せなかった。


だけど、姉は専門に行ったことを後悔していなかった。

そして一度の人生だし、迷惑はかかるかもしれないけど自分のやりたい進路に行きたいという気持ちが強かった俺は必死で親父に食ってかかった。


しかし親父の考えは変わることがなかった。

親父にとって当時18歳の俺は、ただ勉強が嫌になっただけだと思ったそうだ。


「絶対に認めんけんな!」

と俺を怒鳴り、隣の部屋にいた母親が

「まあ今日のところはお父さんもあんまり言わんであげて。」とクッションに入ってくれた。


かくして、進路変更の報告初日は最悪の形で迎えることになった。


また次の記事で!


自律神経失調症によるすれ違い。

米粒です!


今回は前回の続きという感じで、自律神経失調症の症状の始まりからの展開をしていきます。


前記事はこちら↓

https://grainofrice.hatenablog.com/entry/2019/10/05/023755


※これは米粒自身が高校3年生のときに体験した、自律神経失調症の記録です。

自律神経失調症やいろんな症状を思い出したくない方、または記事を読んでいてしんどくなった人は

プラウザバックお願いします。


ですがありのままを伝えたいのと、自分と同じような症状で悩んでいるという人の参考に少しでもなればと思って書いています。


内容が重いのでせめて友達と話すような砕けた文調になることをお許しください。

 

・肺炎と診断されてから

高3の秋、10年前のこの時期に俺は肺炎と診断された。

肺炎やったから2日後からの中間テストはもちろん行けず、内申がどう響くか気が気じゃなかったわ。

肺炎は10日くらいで完治はしたけどさ、

お風呂は絶対入ったらいかんって医者に言われて

10日風呂に入れんかったのが一番きつかったかもしれん。

んで吐き気も少し続くからほとんど食事が喉通らんやった。


医者に「連休明けには今まで通り学校に行けるでしょう」って言われたし、実際連休最終日の夜は比較的体調良くて「これなら大丈夫かも」って思ったんよ


連休明けの10月13日、俺は肺炎なる前の体調不良以来2週間ぶりくらいに学校行ったら、アウェイなクラスでも友達や女子が心配してくれた。

だって俺もともと痩せ型なのに、食事喉通らんから2週間で5キロ落ちたから。

久しぶりの学校はきつかったわー、体力落ちてたのと休み明けなのに朝課外プラス7限、放課後課外だから11時間ぐらい学校やったわ


帰ったら流石に疲れて、ゆったりしながら母さんが買ってきたカツ丼を食べたんよ

たらさ、2週間ほとんど食べてなかったのにいきなりカツ丼をがっつり食べたら胃がびっくりしたんかわからんけど

めっちゃ胃もたれが激しくてさ

寝てても吐きそうなくらい気分悪くなったわ‥

でも吐くの怖いから必死にミンティア噛んだり、右向きに寝たりしてこらえたの。


幸い、吐くよりも先に眠りに落ちたから

その間に消化されたから良かった😁


10/14日。

朝起きたら前日いきなり無理しすぎたことがあって吐き気はあまりなかったけど体調が優れんで

母さんも親父も無理するなって言ってくれたから朝イチで学校に休むと連絡して休んだ。


10/15日。

あまり体調は良くなかったけど、朝課外から登校。

朝課外は政治経済だった。

政経の先生すごい苦手だったんよ

なんかいかにも昭和のスパルタ教育って感じのおじさんでさ

やからなぜか変に緊張してしまって。

そしたら課外中に頭がボヤーンってなって

めまいと吐き気が来たんよ

「やべ、またか‥」って思ったけどまだ終わるまで20分近くあったし

でもこのままこの空間におったらまじでやばい、

吐くとかそういうレベルじゃなくて、なんか死ぬんじゃないかって怖さが俺を襲ったんよ。

もう先生の言っとることすら全く入ってこんし冷や汗も出てきて、

「先生‥ちょっとトイレ行ってきていいですか‥?」

と恐る恐る聞いた。

普段はクラスの人がトイレに行きたいと言うと

行くこと自体は許してくれるが

「休み時間に済ましとけ!アホ!」

と怒鳴る先生。


怒られるかなーって思ったけど、多分顔色も悪かったのかもね、

「ああ、行ってこい。」

とあっさり許してくれた。

そこから15分くらい再び個室にこもり、ミンティアを噛みながらいつ吐きたくなったときでも大丈夫なようにした。

少し症状は落ち着いたけど、やっぱ明らかに体調がおかしいけんさ

友達に「保健室行ってくる」

って言ったら「また?」って言われて

それがちょっと心に刺さったような気がした。

結局保健室に行って無理しなさんなと言われて早退許可をもらって帰宅。



・医者と親父からの厳しい言葉


親父は当時、タクシードライバーだった。

あの約丸一日働いて次の日は明けってやつ。

やから2日に1回は必ず家におるわけ。

10/15日の早退をした日、親父は明けで家に居ったんよ。

その日までは、「無理するなよ」と声をかけてくれた。そう、その日まで。


早退してから肺炎のときに診てもらった病院に行って症状を伝えたら、60代と思われる医者から

「それは単に甘えだよ。先生は毎朝5時に起きて学校に行ってた」

みたいな武勇伝というか根性論を言われ、それでお金を払うのがバカらしくなったね。


10/16日金曜は学校を欠席。次の土日は学校が休みだったけどずっと体調が悪いのは変わらず。

朝起きたら、

倦怠感

めまい

立ちくらみ

吐き気

これがランダムで起こる。

そして人ってさ、耐えられるキツさと耐えられないキツさってあるやん。


例えば腹痛は何時間でも我慢できるけど

頭痛は1時間も我慢できんみたいな。


俺の場合は腹痛とかはよほどひどくない限り学校や職場も耐えれるけど

めまいとか吐き気が来た時は30分も無理かもしれない。


そんな酷い症状が毎朝起きたら続くとか

前世で何か悪いことをしたんじゃないかと思っていた。


週が明け10月19日月曜。

学校へ行く準備はしていたものの、相変わらずのめまいと吐き気で欠席。

リビングで座っていると部屋から親父が起きてきて

なんで家にいるんだというような目で俺を見てきた。

そして

「もういい加減治らんのか?這ってでも学校行きーよ。もう受験なんやから今まで習ったことを反復すればいいだけやから簡単やろうもん」

と言われた。(10年前なので一語一句は忘れたけどこんな感じのことね)


10月20日火曜。

前日の親父の言葉が刺さっていたのと相変わらずの体調に母親がやっぱりおかしいと思って

違う病院に行くことにした。

やけど母さん原付しか免許なくて

病院までの道中、徐行レベルで走る母さんの原付の後ろを離されないようチャリを漕いだのもしんどかった。

その病院では「倦怠感などはともかく、めまいと吐き気さえどうにかなれば学校に行けます」

的なことを伝えたかな。


・もう胃カメラは嫌だ


10月20日から行った病院は内科やったから、吐き気やと胃潰瘍かもしれませんってことで

翌日胃カメラ飲むことになったんよね。

あれがあんなにきついとは‥。


10月21日、学校を休んで病院で胃カメラを飲んだ。

その当時から麻酔で寝ているうちに胃カメラが終わるというのもあったみたいやけど

経過がわかると言って、起きている状態で鼻からチューブを入れられるというまさにこの世の地獄だった。

何度もえずき、つばもろくに飲み込めず飲み込んだらものすごく痛いし苦しい。

多分この先、大金を積まれたとしても起きた状態の胃カメラはお断りする、ゼッタイ。


結果的に胃潰瘍ではなかったが少し胃に傷がついていたのと、ガッツリ胃下垂ですね🤔という診断が。

お医者さんは「食事をいっぺんに食べることができないでしょうね」と言われ、今までも食が細かったのが納得できた気がした


・なんとか学校に行く日々


政経の授業を早引きして以来、死にそうになった空間が怖くなったのとランダムで起こる自律神経失調症の症状で朝から学校に行くことがあんまできんくなった。

んでその空間に授業中に入るってのがめっちゃ嫌いやったから

1限や2限が終わるタイミングくらいに学校着くようにして

休み時間になったら教室に行くようにしてたな🤔


それで10月はなんとか耐えた。


・模試で閉鎖空間のフラッシュバック

11月1日、日曜日。

体調が悪くなる前に申し込んでいた校外模試があることを担任から言われてた俺は

中学から高校も同じ同級生と朝集合し

最寄りのバス停におったんよ

久々に会った友達と

「お前休みすぎやろーw」

「うるせえ!このキツさなってみんとわからんやろ!w」みたいな会話をしながらバスを待ったなー


んでそれまでは平気やったんやけど

バス停に着いたバスが日曜やけんかけっこう人乗っててさ、急に不安なったわけ。

友達に「ちょ、先乗ってていいよ。次のバスで行くわ」と言ったけど

「これ逃したら間に合わんやろ!さ、気にせず行くぜ!」と背中を押されバスに乗り込んだ。


何度か降りたいって思ったけど、友達が話しかけてくれたりガムをくれたりして意外に大丈夫だったのが記憶に残っている。


バスと電車を乗り継ぎ、会場の大学に到着した。


最初の英語は乗り切ったものの、次の国語のときにいつもの吐き気が襲ってきたんよね

今すぐトイレ行かんと間に合わんってほどではないけどなんか少しの症状がずっと続く感じ。

やけど抜け出せない閉鎖空間で模試の90分があんなに長く感じたことはこの後も多分ない。


なんとかチャイムが鳴って昼ごはんの時間になったものの、ご飯を食べるどころか休み明けの授業を受ける気力も残っていなかった俺は、試験監督に事情を話し帰してもらうことにした。


バスで25分、電車で20分ほどの会場をまた公共交通機関で戻るのは無理だと思い

その日出勤だった親父に電話をかけた。

「どうした?今大学におるんやないのか?」

「おるけど体調が悪くなって今から帰る。あれやったら来てくれん?」

その言葉に親父は電話越しでもわかるため息をついて

「もういい加減にしてくれよ。どこがどうあるんや。」

と口にした。

「それが明確にわかるんやったら俺だってこんなに苦しんでないわ!お願いやけん来て、もうバスとか電車で帰る気力ないわ」

自分でも電話の声が自暴自棄になっているのを感じた。


「‥わかったわ。やけど大学まで時間かかるからどっかで待たせてもらっとけ」

と言って俺の返事を聞かずに通話を切った。


11月の寒空の下、ほとんど知らない大学。迷ってはいけないので正面玄関の近くで親父を待った。

まだ昼休憩の時間やったから

自分の学校の人や他校の人がぞろぞろと歩いてきていた。

8月にメールをずっとしていた高嶺の花子さんもいつもいる女子グループと笑いあって渡り廊下を歩いていった。

その光景がとても遠く感じた。


「俺だって高校生活楽しみたいよ」

と自身の体調を恨みながら親父を待つ。

ひたすらメールの受信履歴を見たりして良かった時期を思い出したりしていたときに親父から「玄関着いた」とメール通知。

すぐ玄関に行くと対向車線に見覚えのある黒色のタクシーがあった。

窓越しでも親父が不機嫌というのが表情でわかった。


それから家までの40分ほど、ひたらすら親父からの

「いつになったらよくなるんだ」

「こっちだって体調悪くなるわ」

「なんか悩みとかあるんやったら話してよ」

言葉を言われそのたびに刺さっていた。


親父が心配なのは勿論18歳の当時でもわかっている。


俺が父親で18歳の長男がいたとして

高3までずっと学校に休まず行っていたのが殆どまともに行けなくなったならかなり不安で問い詰めたくなるだろう。

だけど俺はもし父親になることがあり

自分の子供がそうなったとしても

できるだけ責めずに見守ろうと思っている。

なぜなら、親父に言われ続けたことが実は一番のストレスになっていたから。

決して学校が嫌だったわけじゃない。

サボろうという気もないし、元気になって学校に行きたいという気持ちがあるのに体調がそうしてくれないという空回りが続いていた。

スタンドを立てている自転車のペダルをがむしゃらに漕いでいるような感じ。


体調の他にも進路のこと。高嶺の花子さんのこと、クラスにいづらいことなど悩みはたくさんあった。


家に着き、親父にありがとうと言った。

親父は「明日から学校にはちゃんと行くんだぞ」と言いまた仕事に戻った。


それからその日は母さんと進路についてとことん話し合った。

前の記事でも話したけどさ、俺って大学に興味がなかったわけ。んで高2のときから美容学校行きたいって思ってたし、クラスの雰囲気にほんとに馴染めなかったこととかをもう洗いざらい話した。


母さんは「米粒の人生だから何も言わない。その代わりお父さんは頑張って説得させないかんね。あと担任の先生も。」


そんなんだ。それがネック。

担任はある程度のレベルの大学以下は願書を書かないと言っていたし、親父は「とりあえず大学には行っておけ」と口癖のように言っていたのだ。


長くなったので一旦ここで切ります

次回は説得から残りの高校生活について書いていこうと思います!

ありがとうございました😊











米粒が自律神経失調症になるまでの高校生活

米粒です!

みなさんは、自律神経失調症という症状を知っていますか?

俺は、高校生のときになりました

ほぼ治ってはいますが、今でもたまに季節や心の状態で過去と少し似たような症状が出ます。

なんとなく体調が悪いという状態が続くのでものすごく厄介です。

今回は俺がどんな経緯で自律神経失調症になったかというところまで書いていこうと思います。


※米粒は高校1年生くらいからほぼ毎日の出来事を記憶しているので気持ち悪いくらいくらい鮮明な記事になっていると思いますご了承ください。


※この記事を書いたあとにもうすぐにでも忘れたいくらいなので記録として残します。


自律神経失調症についての嫌な記憶が蘇りそうな方は、ここでプラウザバックを推奨します。


※前記事まではほとんど堅苦しい文調でしたがありのままを伝えたいということや

この重い文章を堅苦しい文だと書く方も読む方もしんどいと思うのでがっつりタメ口話し口調にさせていただきます。

方言も多分かなり入ってますが勘弁を‥笑


・挫折


んじゃ挫折、この話題から入ろうか。

あれは12年前のことやね、高校入学。

俺中2までめっちゃアホやったんやけど中3なって勉強頑張ってさ。行きたい高校は偏差値足りんかったけどうち私立が厳しい家庭やったからレベル落として安全圏の公立高校受かったんよ。


2007年4月。晴れて高校生になった俺はその学校でめっちゃ強い部活に入りたくてさ、体験入部とかあったからすぐ出来た友達誘って入ったわけ。

部活はまあキツかったね。

だって俺、中学のときはめっちゃゆるい部活だったからさ笑

でもまだ体力もめっちゃあったし、気合いでついていってた感じかな。


でも顧問はゴリゴリの体育教師やったし、先輩のシゴキもすごいわけ。


んで色々あってやめたんやけど

部活とかの詳しい話はまた別の記事でしようかな。


・ハジけた高校生活

部活辞めたあとはもうアホみたいに遊んだね。地元の友達が帰宅部多かったし

彼女もできてほんと高校生の青春って感じやった。

やけど彼女はすぐ別れてそっからはずっとフリーやったんよね。笑


高2になって遊びに拍車かかったわ。

まず中学の友達とあんま遊ばんくなって、そのかわりに高校の友達と毎週末遊んでたなー

1人おしゃれなやつもいて腕がいい美容室とかワックスの綺麗な付け方とか香水とかめっちゃ教えてもらってさ。

俺も彼女欲しいとかモテたいとかめっちゃ思ってたから小遣いをほとんどオシャレすることに使ってた。

高2の終わりごろ、香水2つとワックス11個あったから笑


でも帰宅部で時間あったから、1年のときにめっちゃ悪かった成績を巻き返そうと思って勉強してさ、2年の期末テストではクラス40人中6位までなったんよ。


・進むべき道


高2になると進路を意識しだすやん?

俺さ、なんにもなかった。

特に大学の資料とか見ても行きたいと思える

学部もなくて

強いて言うならオシャレするのがすごい好きだから美容学校行こうかなーってなんとなく思ってた。


でも親父が「とりあえず大学に行けばなんとかなる」ってずっと言ってたんよ。そのジレンマですっごい悩んでて。


今ならちっぽけな悩みかもしれんけど

学生のときって親とか学校が自分を形成する大部分やん?

やから余計悩んでたんやろうね。


高2のとき、親父がよく外食連れてってくれたのを覚えとるわ。んで俺さ、英語と国語めっちゃ得意で数学理科社会全くダメな完璧な文系だったわけ。その中でも英語はテストでも毎回80後半〜90以上だったから

親父から「将来は英語を生かした仕事なんてどうだ」

ってよく言われてたなぁ。


んで忘れもしない2008年12月10日、

その日も朝からずっと授業でとにかく眠くてさ。チャイム鳴って授業終わったら10分休みに寝ようと思ってたわけ。

そしたら特進クラスの先生がいきなり

「米粒ー!ちょっと来い!」

っていきなり俺を呼ぶわけ。


その先生とほとんど話したことなかったからさ、俺なんかしたかなって思ってたんよ笑


そしたらいきなりさ、

「お前はこのクラスで成績いいから、3年生では特進クラスにもう組み込んでるぞ」

と。

さらに、

「んでもう迷ってるだけ時間の無駄だから、来年受験する社会の科目を政治経済にするか地理にするか今この場で決めろ」

っていきなりよ?言われたわけ。


こっちからしたらは?ってなるよね笑


まあでも大学進学する面で言えば特進おったほうが頑張れると思ったし、専門に行きたいって思ったら進路変えれるやろってなって、特進の話はオッケーしたんよ。

それが選択ミスとは当時高2の俺は知る由もなかったけどね。


・早くも憂鬱になった3年生


前話してた特進クラスの話から4ヶ月くらいあっという間で俺は高3になったんよ。

俺の学校は特進が3-1組でさ、2年のときのクラスから3-1に移動したら俺びっくりしたんよ。

3-1のクラスの顔ぶれってほとんどみんな2-1からの特進クラスの持ち上がりでさ

2年のとき2-2組だった俺(とあと2、3人)はなんか部外者みたいな感じやったっちゃん

何人かは1年のときから何回か話したりして仲よかったけど、本当にアウェイ感が半端なかったね。

それでもちろん12月に話を持ちかけてきた英語の先生が担任。

俺の地域からいける割と偏差値高めのとある大学を担任が掲げて「〇〇大学に全員合格、これより下の大学は認めません」

と豪語していた。

やけん俺さ、放課後担任追っかけて

「俺‥〇〇大学もいい大学だと思いますけど専門とかの選択肢は無いんですか」って聞いたんよ。

たらさ、担任あっさり、

「当たり前だろ。もう2年生のときの進路調査で専門を希望してたやつは特進から外したから。」

と言って職員室へ帰って行ったわ。


やけん俺めっちゃ悩んだよね

とりあえず行動しようと少しでも興味持てる大学ないかとか調べまくったし、特クラについていけるよう勉強も2年のときよりするようになった。


・ある程度の努力は通用しない


3年生になって一気に学校はつまらんくなったわ。

なんか2年のあの毎週友達と遊んで笑ってたのが遠い昔のように思えて、毎日戻りたくて戻りたくて仕方なかった。


追い討ちをかけるように俺を苦しめたのがあってね、英語の小テスト。

その担任の授業のときに毎回英単語の小テストがあって、基準より低かったら放課後やり直しってのがあったんよ。

俺も必死に覚えてたけどケアレスミスが多くてよく居残りしたな。。

居残りやってたのは俺のクラスだけだったから、他のクラスの一緒に帰ってた友達が俺のクラスにもう来るわけ。

待たせてるのすごい申し訳なかったし、

俺も早く帰りたかった。


んで5月に最初の中間テストあって、

テスト前は2年のとき以上に勉強したよ。

やけどクラスにいるのは2年のときも俺以上に勉強してる特進の人ばっかりだったから

2年のときに40人中6位だったのが

3年の中間では40人中38位。


これはさすがに凹んだね〜


・同じクラスの高嶺の花子さん

俺さ、高1のときに付き合ってた彼女と高1の冬に別れたんよ。

そして高1の3月から高3の6月まで片想いしてた女の子がいたの。

2年のときに頑張ってメアドゲット(当時はLINEどころかみんなガラケーだからね)してメールしてたんだけど、向こうは俺のこと初めから好きやなかったみたいで全然盛り上がらないし返して欲しい内容のメールも返ってこなかったりでさ‥

高3の6月にあまりの返信のなさに心折れて

もっといい人がいるんやないかと考えてたときに、同じクラスに気になる子が出来たんよ


その子って特クラの中でも成績いいし可愛いしで高嶺の花だったんよ

何人も狙ってる男子がいるってのもチラっと聞いたなー

でもフリーってことも聞いてたし同じクラスやったからすんなりアドは聞けてさ、その子とメールを始めたわけ


ただやっぱり一筋縄ではいかなかったね〜

俺がその子狙ってるってのをクラスのリーダー的男子が知った瞬間、

リーダーもその子狙ってたんやろうね。

俺をハブるようになったんよ。


クラスの男子でプールに行く約束してたのがオジャンになったって俺は聞いてたのに、

SNSにはみんながプール楽しかったって書いてたり。


結局俺もその子と付き合うことは出来ずに終わってしまったけどね。笑


・愛犬の死

俺が高3のときの7月、家で飼っていた犬が天国へ旅立ったんよ。

その犬は俺が3歳のときからずっと飼ってて

幼稚園とか小学校のときはよく散歩行ってて本当に仲間みたいな存在だった。

高2の終わりごろから歳で弱ってきて長くないことは分かってたつもりだったけど、人間も動物も含めて最初の死別だったからものすごく悲しかったなぁ。


・巻き返しが仇


よく中学とか高校の先生が夏休み前に

「夏を制するものは受験を制する!」

ってよく言うやん。

あれって、大人になった今だからこそ声を大にして言える。

「マジで夏休みは大事。」

なぜなら、夏頑張らなくてダメになった米粒ってやつを俺知ってるから。笑


身の丈に合わないクラスに入って学校が楽しくなかった俺は、先生の言葉を聞いても、正直に言うよ?

「暑苦しくてだりー」

って思ってたの、当時の俺は。


んで高3の夏休みに遊び呆けてしまったんよ。

高嶺の花子さんとメールしたり、高校を中退した友達とオールで遊んだりもしてた。


それが俺のストレス発散でもあったのかなって今は思う。


でもやっぱ現実は甘くないよね。

夏休み明けのテストの成績はボロボロ。

当時の俺の口癖は「俺特クラにいていいんかなあ」だった気がする。


9月を半分過ぎたあたりから、クラスが受験モードになったのを肌で感じたんよ。

あぁ、まじで緊張感すげー、みたいな笑


やけん俺も負けたくないって思ってさ、9月後半からめっちゃ勉強したよ。

2日間で4時間くらいしか寝ていないときもあったし。

これで夏休み遊んでたぶんを取り戻せるなら安いわ!って思ってた。


たらさ、やっぱ人間って合わない環境とか慣れん環境で無理してたらガタくるんよね。


2009年の9月28日。俺はこの日を忘れることはないやろうね

月曜日で朝起きたときはちょっと寝不足かなーくらいで思ってて。

授業受けてたらなんか体調が悪くなってきて

一限終わりのチャイムが鳴った後、急に吐き気に見舞われてさ。

俺嘔吐恐怖症やからまじでやばいって思ってトイレ行ったんやけど、休み時間やったから人めっちゃおってさすがにここはまずいって思ってさ


とりあえずクラスの友達に保健室行くって話して保健室横の空いてるトイレの個室に入ったけど、気持ち悪いにもかかわらず吐くのが怖いからこらえてるような感じやったんよね、多分。

なんとかたまたまポッケに入れてたミントのガム噛んだら吐き気が少し収まって保健室行ってベッドで安静にしてたんよ。


1時間くらい寝てたら先生に、

「一応熱計ってみたら?」

って言われて計ったら8度6分あってね‥


んで早退許可もらって帰って母さんと病院行ったら、2、3日学校は休んで安静にってことやったんよ

俺ショックでさ

熱出したのも高1のとき以来で、

高校入学してからその日まで!皆勤賞やったんよ

やから落ち込んだね

でも無理し過ぎたのかなーって思って3日ぐらい休んで学校行こうと思ったら、なぜかまた月曜のときほどじゃないけど吐き気が来てさ

それで大事をとってその週は丸々休んだわ。

でも熱は治ったし、前日に友達にメールしたりしてたから後日談やけど「あのときはサボりやと思ってた」って言われました笑


んでその次の週からテストやったからこんな風邪くらいでいつまでも休んでられっか!って思ってまた無理しちゃったんよ。。


んで迎えた10月4日から10月5日に変わる夜。

5日が月曜で学校だったから

早めに寝てたんやけど

ふと深夜にすごい吐き気で目が覚めて

それはこらえきれずにトイレで吐いてしまってさ。


んで母さんが物音聞いて心配になってトイレ来てくれてさ、もう休んでまた病院行こうってなった。

前と違う病院行ったら肺炎って診断されて‥

テストは勿論間に合わず、入院か通院か選べて通院にしたけどもう俺の心は完全に折れてしまった。

肺炎は2週間ほどで完治したが俺の心は完治どころか悪化していて

そのあともずっと俺は吐き気と動悸、めまい、頭痛に悩まされる日々が続いたってわけ。


長くなったのでこの続きは次の記事で書くね。

見てくれてありがとう。


#自律神経失調症

#体調不良

#嘔吐恐怖症







会食恐怖症について

米粒です!


今回は前回お話した通り、会食恐怖症というものに焦点を当てて書いていこうと思います。

かなり長めになっていますが、もしよければ読んでください(まとまりがなくてすいません、、)


2019年9月12日現在、米粒はとある飲食店で働いている28歳。


見た目は第1印象は「チャラい」「YouTuberにいそう」とよく言われます。

そして話すと真面目らしいです

「喋らなければイケメン」

と言われたことも。


なんだよ喋らなければって!!笑


なんて話が脱線する前に。

こんなチャラいと言われ悩みがなさそうと思われがちですが、米粒は「会食恐怖症」です。

今の飲食店では自分がこの症状だということを誰も知りません。


・そもそも会食恐怖症とは?


いくつかの定義や人によって度合いも違いますが

基本的には「人と一緒にご飯を食べるのを苦手とする人」だそうです。

症状としては極度の緊張、冷や汗、お腹は減っているはずなのに喉を通らないような気持ちになる

があります。


・米粒の会食恐怖症のレベル


1.家でひとりで自分のペースでご飯を食べるのが一番の幸せ


2.友達と遊びに行くときも、1日を通しての遊びにしないようにする

例:昼13時に◯◯駅集合ね!昼ごはんは各自で食べてきて!


3.会食恐怖症をほとんど気にせずに食事ができる友達は2人ほど


4.ファミレスの残していたら一発でバレる定食などがかなり苦手


5.居酒屋は1つの大皿をみんなで分けて食べたりみんな飲むほうに集中してくれるので比較的ラク


6.みんなで急に食事に行くことになると本当は行きたいのに不安な気持ちが勝ってうまく理由をつけて帰る


7.食堂は基本的に利用しない


8.今までで元カノは4人いたが、一度も本格的な食事デートをしたことがない


9.人と食事をしてて緊張で全然食べれないことを突っ込まれると、「いや、昼ご飯食べて入らんのよね」と言い訳をする


ひとりでの外食でもざっくりまとめると


ファミレス→△(ひとりで時間をかけるならなんとか‥でも極力行きたくない。テイクアウトならオッケー)

牛丼屋→×(テイクアウトなら◯)

カレー屋→×テイクアウト(ry

ラーメン屋→1店舗を除きほとんど行かない


こんな感じです。いやぁ‥自分でも書いててよくこれで生活できてるよなって感じですよw


特にやばいなと思ったエピソードがあるのでこの際挙げておきましょう!


・米粒の過去


ケース①腹ペコの研修

米粒は昔、地元を離れて県外の工場で働いたことがあったのですが、工場で本格的に働く前に座学の研修が行われました。

そして1日通しての座学なので当然食事の時間があります。

そこで上司の人が

「上の階に食堂がありますので、私も含めてみんなで食事しながらお話しましょう!」

と言いました。

そこで米粒は異常な緊張感を覚えました。

自分が会食恐怖症なのを知ってる人はいるはずもなく、お腹が空いていたはずなのにご飯をもらいに行くときに食欲がなくなり、おそらく幼稚園児くらいの子が食べる量しかよそいませんでした。

結果、その量すら完食はできず、周りからは心配されました。

本当に「喉を通らない」というか

口に入れても拒否反応を示すのです。

「ちょっと緊張かわからないですけど全然入りませんわ笑」

と言ってその場は凌ぎましたが

食堂を出た途端にお腹が空き、次の座学の授業ではずっとお腹が鳴っていました。


ケース②お腹が空いてめまい

これは23歳のときかな。車の免許も取り、21歳の時に住んでいた2つ隣の県までドライブに行きました。

そして21歳のときに仲の良かった女の子とデートの予定を立てていました。

そのときの昼飯は時間がなく車でのパン二個。

女の子と遊ぶころにはすっかりお腹すいた状態に。

しかし遊んでいたら忘れるだろうと思いドライブや買い物をすること数時間。

買い物でたどり着いたショッピングモールを歩きながら話しているとなぜか頭がクラクラする感覚に見舞われて

女の子の話も頭に入らなくなってきました。


そして吐き気も襲ってきたので、ヤバイと思い

「ごめん、ちょっとトイレ我慢しててさ笑」

と言い

「早く言ってくれれば良かったのに笑」

という返事を聞く前にトイレにダッシュしました。


しかしトイレに着いた瞬間、安心感から吐き気は収まり、いつでもトイレに行ける通路で女の子にバレないようにカバンに入れていたチョコを食べて乗り切りました。




いやーひどい笑

でもここまでではなくても、自分くらいにこの症状に悩んでいる人はきっといるはず。


・会食恐怖症になる原因


これも様々です。

家庭環境であったり、トラウマがあったり。


ちなみに米粒がなった原因はこれ!


・偏食

前回の記事でも書いたが、野菜を筆頭に好き嫌いがかなり多い。

こだわりも強く、少しでも嫌いな成分が入っているものはほぼ買うことは無い。

なので会食の場で嫌いなものが出ると言うのはいわば公開処刑みたいなもの。

ほら、あれだ‥。全くわからない数学の授業で当てられたときの絶望感によく似ている。(経験談)


・食べるのが絶望的に遅い

小さい頃から食べるスピードも遅く

それで食事に集中できずにテレビを見たり、家族と会話をしすぎてよく怒られていた。

学生時代の給食では

「米粒くんがまた野菜残してまーす」と

「米粒くんがまだ食べ終わってません」

耳にタコです。


胃下垂

高校3年生のときに診断済み。

「普段の生活に支障は無いが、いっぺんに食事が出来ないタイプだね」とお医者さんに言われた。

だから短時間で大盛り弁当を平らげる人はすごいと思う。


・嘔吐恐怖症

これが一番デカイ理由だろう。

これを話すと長くなるので別記事で話そうとは思ってるが、、、

米粒はかなりの嘔吐恐怖症なのだ。

よくYouTuberで実験で涼しい顔で吐く人がいるが、俺からしたら身体がどうなっているのか解剖してみたいくらい分かり合えない人種だと思う。

要するに好き嫌いも、アレルギーではないのでせいぜい体調を崩したり吐いたりするぐらいだが

その吐くことが困難、または極度に恐れるため食べることができないのだ。

まあこれは昔よりは若干マシになったんだけどね‥


以上が米粒を悩ます原因!

しかし上に挙げたように、会食恐怖症でもほとんど気にせずに食事ができる人が2人もいるんだ。

これは10年来の親友で

自分が会食恐怖症だとは言っていないが

「食べれんのやったら無理せんどき」と言ってくれたり、「食べんのやったらちょうだい」と言って食べてくれる。


あとは米粒が普段どう生活しているかというと


①「全然食べてないやん」という言葉は基本的に無視する


無視するというと少しひどく感じるが、気にしないということ。

おそらく会食恐怖症の人は、会食せざるを得ない状況になったときに不安や緊張で食べられない場面があり、上のことを言われることがあるかもしれない。

しかし別に気にする必要はない。

「ちょっとあんま腹減ってなくて」とか

「前のご飯食べすぎちゃって」と言っておけばいい。」

言葉を間に受けて「ああ、やっぱり食べれないんだ」と落ち込んでしまうとさらに食欲が落ちる。これは自分自身の経験談だ。


②食べられなかったときはリボ食事


上に書いた工場のときは、手荷物を少なくするためにカバンに何も入れてなかった。

会食恐怖症によりほとんど食べられなかった人は、その状況から解放されたあとお腹が空くことが多い。

なのでパンやおにぎり、ウィダーや小腹満たしのお菓子などをカバンに入れておくことをオススメする。

パンやおにぎりは極端な話隠れてでも食べやすいし、中途半端に食べるとさらにきつくなるという人でなければ楽になる。

ブラックサンダーなどはコンビニでも安く買えるし、小腹満たしでは愛用している。

この少しずつの食事を自分で「リボ食事」と勝手に名付けて呼んでいる。笑


③取り戻し

工場のときにお腹が鳴りまくって恥ずかしかったので、耐えきれず次の休み時間に売店に走りパンを買って食べた。

それで研修はしのいだが

やはり昼をパン一個程しか食べていないと身体がもたない。

なので夜家に帰ったら昼食べられなかった分を補うようにたくさん食べてた。

もちろん食事は人によるから、あくまで自分の例です


・だけど改善はした!

長々と「他人との食事きつい」ということについて書いてきたが、これ実はちょっとマシになったんですよ!


・飲食店で働くということ

冒頭でも述べたように、米粒は飲食店で働いている。メリットはいくつかあった。

①自分のペースで休憩できる

米粒の飲食店はずっとピークタイムの人不足で(人は足りてるけどみんな当たり前のようにバツつけるからね!笑)シフトの決められた時間に休憩できないなんてのはザラ。

なので各々パッ!と時間を見つけて賄いを食べる。

なので、他人がどうとか言ってる場合じゃない。


②賄い

賄いがあって本当に助かった。

1人暮らしだと食費が浮くし、自分のペースで食べられるのでラク。残しても高温多湿

なとこ避けて保存してればまた少ししても食べられるし。

少し話はそれるが、実家暮らしで違う飲食店で働いていた友達は食事を全部賄いにして給料を貯金し、単車を買いました笑


・まとめ

以前自身のFacebookで会食恐怖症を打ち明けたところ、何人かからコメントで「俺も多分それ!」「私も人と食べるの無理!」

とあって、

悩んでいるのは自分だけではないと感じた。

めちゃくちゃ長くまとまりのない文章だが、

少しでも自分の書いた記事を多くの人に見てもらいたいと思っている。


・自分以上に悩んでいる人がいた

工場でほとんど食事ができなかったとき、

「なんで人と食事ができないんだろう」

と悩みまくった。

まだ「会食恐怖症」なんて言葉も知らない。

ネットで「他人と食事ができない」的なワードで検索した気がする。

すると辿りついたのがこの山口健太さんという人のブログだ。

https://soar-world.com/2018/03/29/kentayamaguchi/


山口さんと直接お会いしたことはないが、

少し境遇が似ていると思ったし

過去の自身の体験をもとに会食恐怖症の人達と向き合っている素晴らしい方です。


・好きなものなら大丈夫


米粒は今までの人生でいくつかの土地を転々としたが、生まれ育ちは福岡県である。

福岡でも外食は友達とたまに行くくらいであまり好きではなかったが、唯一気にせず行けるお店があった。

それがここ↓

https://www.marutan.info/

博多 まるたん 


米粒はよく博多や天神に遊びに行っていたのだが、19歳?くらいのときにふらっと立ち寄ってから美味しくてよく通うようになった。

独特のスープと、辛味噌がマッチしていて

煮卵がかなり柔らかく仕上がってるのも特徴だ。


今、米粒は別の県に住んでいるのだが

福岡育ちというと「おいしいラーメン屋教えて!」とよく聞かれる。

そのときは迷わずここを教えているほどだ。

他の店に行くときは緊張して全然食べられないときがある。

単に慣れただけなのかもしれないが、5年以上通っても飽きない味はなかなか無い。


最後に話は少し逸れてしまったが、

会食恐怖症で悩んでいる皆さん

かなりきついですよね

なかなか理解されないこともあるでしょう

しかし少しずつでも「食べることができた」

という喜びは他には変えられません

一緒に頑張りましょう。


ではまた次の記事で!

#会食

#会食恐怖症



「食」で苦しんだ小学校高学年時代

米粒です!


今回も前回に引き続き、給食についてのありのままのエピソードを書いていこうと思います


・小学4年生になってから


3年生を終えて4年生になった米粒は、まだ給食についてビクビクしていた。

しかし当時の担任は給食に関しては良くも悪くも関心を示さない先生で

給食のことよりも、4年生で同じクラスになった友達と悪いことをしていたほうが問題視されていた。

悪いことと言ってもお互い自我が芽生えてきたことによる価値観の違いによる喧嘩や

その友達とくだらないことをして笑って怒られてを繰り返していた感じ。


・4年生の夏休み


4年生の夏休みは今までの人生の楽しい部分が一気に凝縮されているのかと思えるくらい濃ゆい夏休みだったのを覚えている。

ふとしたきっかけで野球が大好きになり、将来は野球選手になるんだ!といつも言っていた。


その中でも友達と喧嘩した思い出が記憶に残っている。

当時、同じクラスでつるんでいた「ユウ」と夏休みにプールに遊びに行った。

プールで馬鹿みたいに遊んだ後、ユウの家で門限まで遊ぼうという話になって米粒は終始ウキウキしていた。


当時流行っていたゲームボーイアドバンスを二人とも持っていたので

マリオカートの対戦をして遊んでいた。

すると一階から「ユウ、米粒くんもご飯食べなさい!」とユウの母さんからの声が。


プールでお腹が空いていたので米粒は友達の家なのにダッシュで階段を駆け下りる。


リビングに着くと米粒は絶句した。


暑かったのでメニューはそうめんだったのだが、そうめんの上に細切りのきゅうりがたくさん載っていたのだ。


さらにキッチンからきゅうりの匂いがして米粒はすでに息を若干止めていた。


ユウがとっさに「母さん、米粒はきゅうりダメだって知ってるでしょ!」

と声を上げる。


ユウの母さんは忘れてたと言わんばかりにハッとした表情をしてそうめんのボウルをキッチンに持って行った。

そしてすぐにきゅうりが載っていないまっさらなそうめんが出てきて

「米粒くん、私うっかりしてて。ごめんね。」

と言ってきた。


「いえいえ‥」と申し訳ない気持ちになりながらいただきますをして米粒が箸でそうめんをすくったときに気づいた。

(このそうめん、さっきのきゅうりを取り除いただけ?)

ほんのわずかだがきゅうりの匂いと取り除き損ねたきゅうりが入っていた。


固まる米粒にユウは「どうしたんだよ、抜いたんやけん食べれるやろ」

と言うが米粒はどうしても無理で

ユウの母さんに

「すいません。取り除いたものだと匂いがまだ残っていて食べられません」と正直に言った。

ユウの母さんはびっくりしていたが

「じゃあそのそうめんはおばちゃんが食べるわ。新しいの作るから少し我慢しててね」

と再びキッチンに行った。


新しいまっさらなそうめんを食べて

2階に上がった瞬間、

「お前ふざけてんの?」

「抜いてもらっただけありがたいやろ!」

とユウが激怒した。

「食べれないんやから仕方ないやろうが!」

と米粒も引かず取っ組み合いの喧嘩になり、

米粒は家に帰り自分の母さんにこっぴどく叱られた。


のちにこのエピソードを中学生になってから同じ学校に進学したユウがみんなに言いふらしたせいで

中学時代から大人になった今でも飲みに行くとその話題になることがある。


・お昼は牛乳だけ


先生が何も言わないせいか、米粒の偏食はエスカレートしていった。

そして今でも覚えているのが二週間に一回か月に一回くらい、牛乳しか飲めない献立があった。

当時の給食は日にもよるがお皿が2枚、ご飯またはパンというのが基本だった。

しかしお皿のメニューがサラダと、もう一つも野菜の煮物みたいなものが入っていて

一口食べてもう無理だと思えるもの。

そしてその献立では好きな白米も無くパンで

パンは苦手なレーズンが入っていた。


なので、その献立の日は給食に一切手をつけず牛乳だけを飲んでいた。

不思議なことにお腹が空いていたという記憶は無いのに。


・初恋の女の子からのキツイ尋問


ユウやほかの友達と遊びまくって楽しかった4年生も終わり、米粒は5年生になった。

そして米粒は入学して初めて同じクラスになった女の子に初恋をした。

初恋の女の子、アスカはいわゆる優等生で

勉強もできてスポーツも万能、音楽の授業ではいつもピアノを弾くお嬢様。

小学5年生らしい発想だが、

「将来野球選手になってアスカを幸せにする」と毎日ノートの隅に書いていた。


そしてアスカに想いを寄せ始めてから2ヶ月ほど経ったときだろうか。席替えでラッキーなことにアスカの隣になったのだ。

米粒は歓喜した。


しかし、その歓喜もわずかな時間だった。


席替えの後の給食の時間、米粒の苦手な野菜が出た。

いつものごとく、最後まで手をつけずに残すつもりで野菜だけ残ったお皿。

これをアスカが見逃さなかった。

「なんで野菜食べていないの?」

「嫌いなの?」

「作ってくれた人に申し訳ないと思わんと?」

「もしこの世の中が野菜しかなくなったらどうすると?」

と問い詰められた。

そう、アスカは今まで同じクラスになったことがなかったので、米粒の野菜嫌いを知らなかったのだ。


・先生、米粒くんが野菜残してまーす


このセリフを学生時代何回聞いただろうか?

アスカは優等生なので周りも同じ考えを持っている女友達が多く、同時に仕切りたがりな性格のグループである。

先生もため息をついて

「米粒くん、もう5年生なんだからそろそろ食べなさい」と言ってきた。


アスカへの気持ちはすっかり冷めてしまい

席替えで別の女の子が隣になっても

決まってアスカの取り巻きの女の子から

「また残してる!」

「いつになったら食べれるようになるの?」

と攻撃されるようになった。


・先生からの陰湿な攻撃


小学校自体の学区が小さめで人数も少なめだった米粒の小学校では

もはや同級生と先生の間では

「野菜が異常に食べられないヤツ」

ということを知らない人がいないレベルにまでなっていた。


米粒の5年生のときの担任は新米の26歳の男の先生だった。最初こそはほとんど何も言ってこずに

「野菜食べんと大きくなれんよ」

くらいだったが、あまりにも米粒が野菜を食べないのと女子からのチクリによってある日突然態度が変わった。


小学校だと漢字ドリルや計算ドリルがあって宿題提出があるが、返却の際にノートやドリルに

「野菜!」

と書かれるようになり、

さらには4年生から野球選手を目指しているということを知った先生から

「野菜食べないと野球選手にはなれない!明日の野菜は食べようね」

などと赤ペンで書かれるようになった。


しかしどうしても野菜を食べない、または一口ほど食べて許してもらう姿勢をずっと貫いていた米粒は次第に先生も疲れてきたようで

女子からのチクリはまだ続いていたが、

「もう無理やったら残させなさい」

と返答していた。

女子は不満そうだったが睨んでくるぐらいだった。


・最終学年


色々あった5年生も終わり、米粒は晴れて6年生になった。

6年生の担任は米粒が2年生から知っている先生で、生徒の面倒見がよく明るい性格でみんなに好かれたいた。

米粒は6年生になってすぐに、

先生に「もう十分先生も知ってると思うけど、俺野菜食べられないんです。食べようとしても受け付けないというか‥」

と不安そうに打ち明けた。


先生は米粒の手を握り

「好き嫌いは仕方ない。先生にだってある。ただ、もう6年生だからできることをしよう。」

と笑顔を見せた。


上の言葉は噛み砕いた言い方をすれば

「頑張って食え」ってことだし他の先生と変わらないのだが、米粒はこの言葉でなぜか安心感があった。


・挑戦


6年生になって変わったのは担任だけで、

クラスのメンバーは5年生と変わらなかった。

なので5年生のときからのアスカグループが隙あらば攻撃をしてくる。

本当に鬱陶しかった。


それが6年生のとある給食で少し米粒は変わった。

その日出た給食の中にはトマトがあり、姉も自分も苦手な食べ物。

いつもの女子の「米粒くんが残してまーす」から始まり、先生がやるだけやってみようよと優しく声をかけてくれたことにより、米粒は一口だけトマトを口にした。

実際は相当キツく、その一口すら吐きそうになったが、

クラス全員がスタンディングオベーションになった。


それ以降、どうしても食べられないこともあったが全部残す日、一口食べる日などを重ねて女子からも何も言われなくなった。


そして時は経ち、米粒は無事に小学校を卒業した。


・まとめ


好き嫌いは多くの人があると思うし、なかでも食べれるものが限られてくる人はかなり苦しい思いをすると思う。

米粒は今28歳だが、結論から言えば未だに野菜は大の苦手である。

それでも今普通に生活できているし

なぜか野菜ジュースやスムージーは飲めるのだ。

「野菜ジュースとか全く意味ない」

って言う人もいるだろう。

しかし野菜嫌いな人からは

「何も摂らないよりは全然いい」のだ。


しかし、全ての悩みが解決したわけではもちろんない。

米粒は小さい頃からの野菜嫌い、会食恐怖症などなど色々抱えているので

次回の記事では会食恐怖症をメインに書いていこうと思う。


長々とありがとうございました。


#好き嫌い

#小学生

#野菜嫌い





「食」で苦しんだ学生時代。

米粒です!


今回は前回の続きで

学生時代に「食」で苦しんだことを書いていこうと思う。


・小学3年生


2年生のときの「残すな」という怖い先生が異動して、3年生のときにクラス替えとともに担任の先生も変わった。

当時の担任はおそらく25歳くらいで

かなり若かった記憶がある女性だった。


去年の苦い記憶もあり、米粒は先生に

「野菜がどうしても食べられないんですけど、残していいですか‥?」

と恐る恐る聞いた。


先生は、「好き嫌いはあまり許せないけど、どうしても食べられないなら残してもいいよ」

と言った。

それが米粒にとってかなり嬉しかった。


ノイローゼのようになっていた2年生のときよりも学校生活も楽しくなり、米粒は笑顔も増えていた。


・代理の先生が米粒の悩み


担任の先生は給食について言ってくることはなかったが、

担任は当時産休を使っていて学校を休むことが多かった。

担任が休むたびにクラスを持っていない先生が代理で来ていた。

その先生が米粒を悩ませた。


代理の先生が昔ながらの残すなという先生で、多いぶんを減らすこともなかった。


・ひとくち食べたんで残してもいいですか?


これは米粒が代理の先生に向かって言った一言だ。

どうしても許してくれない先生のため、ひとくちでも食べたなら考えてくれるのではないかという考えだった。

しかし代理の先生はため息をつき、

「こんな量も食べれんのか!」

と給食の後説教された。


・学校の欠席


不運なことに、担任は産休明けで休むことが多く、その度に代理の先生が来ていて

なかでも許してもらえない先生が来ることが多かった。

代理の先生が「次は金曜日に来る」

ということを帰りの会で言っていて、米粒は一気に青ざめた。

金曜日はひとくちも食べられないサラダが出る日だった。

迎えた5月16日金曜日。

米粒は朝起きて学校に行くのを嫌がった。

2年生のときも何回かあったが、

学校に行ってまた怒られることを考えると憂鬱になる。

母に叩き起こされてリビングで朝ごはんを食べていた。

米粒には3歳年上の姉がいる。

当時6年生だった姉は、すでに朝ごはんを食べ終わり、運動会の組体操の練習をしていた。

組体操に興味を持った米粒は姉の真似をしていた。

すっかり給食のことを忘れてはしゃいでいたとき、バランスを崩して米粒は転倒した。

転倒した際に唇を強打し、血が溢れてくる。

すぐに母はハンカチで米粒の口を覆い、病院に連れて行ってくれた。

結果、唇を4針縫う怪我。

大事をとって学校は欠席した。

「馬鹿やねー」と言いながら学校に行く姉。

「気をつけないかんよ」と怒ったあと仕事に行く母。

家に居ても暇だったのでいつもは長時間は禁止されていたテレビゲームを一日中やった。

学校へ行かず給食を回避することができた喜びと、

普段姉とゲームの奪い合いになっていたので米粒はこの日の喜びを忘れていない。


・あまりに残しすぎて、ついに担任から目をつけられる


3年生も終わりを迎えた金曜日のある日のこと。米粒は4月に担任に言われた「無理やったら残してもいい」

という言葉によりなんのためらいもなく野菜を残すようになっていた。

その日も、給食でサラダが出ていたので一切手をつけず、ボウルに当たり前のように返却した。

すると担任から

「米粒くん、ちょっと来なさい!」

と呼び出された。

そして「今までは許してきたけど、これでは米粒くんのためになりません!来週からは残すことするな、全部食べろ!」

と怒鳴られた。

9歳の小さい子供からすると、25歳ほどの女性からでも怒られると相当怖い。

さらに次の週の月曜日は、ひとくちも食べることができない野菜が出る日。

米粒は一気に2年生の頃のノイローゼのような症状を思い出した。


・和解


週末の間、米粒は次の月曜の給食が気が気でなく父に遊びに連れて行ってもらったがなかなか楽しめなかった。

月曜、腹をくくって鼻をつまんでひとくち野菜を食べたものの、すぐ横に置いていたティッシュに吐き出してしまった。

しかし担任はその頑張ったことだけは見ていたみたいで、「先生も先週は強く言いすぎたみたいでごめんね。本当は克服をしていかないといけないけど、あなたはもういいわ。」

と言われて頭を撫でてくれた。


それから3年生が終わり、先生は育児専念で休職されたと聞いた。


4年生のときの先生は給食に関してはあまり何も言ってこなかったが、4年生のときにつるんでいた悪友との素行面で相当怒られたことは記憶にある。


5年生からの食については次回の記事で。


ありがとうございます。



「食」で苦しんだ幼少期


どうも、米粒です!

俺はADHD自律神経失調症、うつを経験していて

さらに「食」について小さい頃から悩まされてきた。


順を追って話していきたいので、

まずは幼少期からの「食」についてのことを書いていこうと思う。


・物心ついたとき

これは3、4歳の頃に遡るが

すでに「野菜が食べられない」

ということが俺の記憶にある。

食わず嫌いではなく、実際に食べては吐き出していたと母さんから聞いた。


・幼稚園

4歳になって通い始めた幼稚園は、珍しく給食が出るところだった。

しかし食べれないメニューが多く、残してばかりだった。

幼稚園に入る前から母から好き嫌いの克服は何度もされたが、野菜は本当に受けつけられなかったのだ。

そして年中組に上がったある日、その日も給食が食べれず困っているときに突然母が幼稚園に来た。

そして先生に

「米粒のぶんの給食はもういらないです。

これからは私が弁当を作って持たせます。」

と話をして、翌日から本当にクラスで自分だけ弁当になった。

母の作る弁当には基本的に、苦手だけどなんとか食べることのできる野菜が1割程入っていてあとは自分の好きな食べ物が入っていた。


・小学校低学年

幼稚園を卒園して、米粒は小学校に入学した。

小学校1年生のときの記憶はほとんどなく、

地獄が始まったのは2年生になってからだった。


・お残しは許しまへんで!

忍たま乱太郎の食堂のおばちゃんがよく言っているセリフ。

米粒の小学2年生の時の担任の先生がまさにこんな感じだった。

まず、「いただきます」を言う前にその先生が

「今のうちに苦手なものがある子は減らしてきなさい!」

と教卓から声を張り上げる。

しかし、全部を減らすことは許されず、一口か二口ほどは絶対に食べろと言われた。


ここで大体、

1.一口くらいならと割り切って食べる子

2.嫌いだけど鼻をつまんで食べる子

3.泣き喚く子

この3パターンに分かれる。

米粒はというと見事に3の子でした‥ハイ。笑


いつの世代でも、どこの小学校でも3の子は昼休みになってクラスの子が遊びに出ているときも給食を食べていたりする。


漫画「ちびまる子ちゃん」でも、5時間目の前に給食を食べている男の子の描写があったのを覚えている。

「プリンは俺が食べてやる」

という少年のニセモノの優しさ

は当時かなり笑った。


・8歳でノイローゼのような症状に

残すことを許してくれない先生により、

当時8歳の米粒は

教室に貼られている献立表のプリントを見て

食べられないものが出る一週間ほど前から

「来週の◯◯、どうやって残そう‥」

と不安になっていた。

それは学校だけでなく、土日休みの家族で出かけているときも

「来週の給食どうやって残したらいいと思う?」

と家族に聞いていた。


・忘れられない日

米粒は現在28歳だが、この出来事は20年経つ今でも覚えている。

小学2年生の10月14日木曜日、前の週から不安になっていた苦手な献立の日。

一口すら食べることができない程、嫌いなものが入っていたのだ。

いつものように先生が「減らしてきなさい」と言い、

米粒は先生の隙をついて全部をボウルに残そうとした。

しかし先生に見つかり、こっぴどく叱られた後に一口をお皿に注がれて

「絶対にこれだけは食べなさい!先生見てるからね!」

と釘を刺された。

給食の時間の間に他の給食は食べたものの、サラダだけはどうしても食べられなかった。


昼休み開始のチャイムが鳴り、一斉に遊びに行くクラスメイトたち。

しかし食べ終わっていない野菜とずっと監視をしてくる先生。

耐えられずに米粒は泣き出してしまった。

「泣いてもダメです!食べなさい!」

先生の怒号が教室に響き、一層涙が止まらなくなった。

昼休み開始から5分くらいしたあと、

「先生は職員室に戻るけど、絶対に食べなさいよ!」

と言って出て行った。

しかし目の前の問題が解決したわけではない。


教室のゴミ箱に捨てたら先生にばれる。

残したまま給食室に持っていくにも職員室を通るため見つかる。

八方塞がりの状況でより一層泣いた。


そのとき目の前を見たら、サラダのほかにもパンが残っていることに気がついた。

小学校のルールでパンは家に持って帰っても良かったのだ。


一か八かで米粒はこっそりパンを2つに割って

その中にサンドイッチのようにサラダを挟んだ。

そしてパンを給食袋に入れて空になったお皿を給食室に持っていった。


家に帰ってからパンに挟まっていたサラダに気づいた母はびっくりしていたが、

いつも献立表を見てノイローゼのようになる米粒を見て何も言わなかった。


・先生も諦めた

10月の一件以降も、先生からの「食べなさい」と怒られ続けた。

押さえつけられて無理やり食べさせられることもあった。

しかしあるとき、

「もういい!」と怒って先生が教室から出て行った。

そして2年生が終わり、小学3年生になったときはその先生は別の小学校に異動したと母から聞いた。


しかし米粒の恐怖心はまだ治らず、3年生になりクラスと担任が変わったときに

新しい先生が

「先生に伝えたいこととかある人手を挙げてー!」

と言ったときに米粒はそっと手を挙げて

「お願いです。本当に食べれない給食は残させてください。」

と伝えた。


長くなるので3年生以降はまた次の記事で書きます。